勝 海舟 は,幕末から明治時代初期の激動の時代を生きた最後の幕臣であり,私が歴史上の人物の中でほぼ唯一人,最も敬愛している先生だ.勝先生の口述録である「氷川清話」「海舟座談」は私の愛読書である.
勝 海舟は号で,妹婿であった佐久間象山が書いた「海舟書屋」という額の字が由来.明治維新後に改名して勝 安芳と名乗る.こちらはもともと安房守であったことから勝 安房と呼ばれていたのに由来するが,アホゥとも読めるなどと言ったりしている.1823年(文政6年)3月12日生, 1899年(明治32年)1月19日没.幼名・通称は麟太郎で諱は義邦という.
正二位勲一等伯爵で初代海軍卿.新政府から子爵を叙爵されたときに,「今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは」と詠んで辞退し,後に伯爵を送られたと言う話は有名で,私はこのエピソードが大変好きなのだ.その微妙な匙加減に「因果を昧さず」の妙境を感じるのである.拘るべき所は拘るが,囚われすぎることもない.その禅的な自由闊達さこそが,彼が江戸から明治の転換期の新しい日本作りに,大いに貢献出来た所以であろう.勝海舟は若い頃,かなり剣を修行していて,直心影流の免許皆伝であるのだが,御師匠の島田虎之助は麟太郎にかなり禅を修行させたと言い,それがその後の活躍に大いに功あった,と勝海舟自身が氷川清話で語っている.私も勝海舟先生の言葉・行動には,至極禅味を感じるので,その話はとても納得できるのだ.
江戸城を無血開城に導いた功績や坂本龍馬に深い影響を与えたなども凄いと思うが,それ以上に私は,勝先生の深い洞察力,大局観,それらに基づきながらも,根本にある自分の信義は些かも曲げないという強靱な精神に感服しているのだ.
あれだけ先進的でありながらも,彼は最後まで幕臣であった.徳川慶喜の赦免に尽力し,幕府崩壊で路頭に迷う旧幕臣の世話や援助をするなど,江戸時代の後片付けに奔走した.ひいては旧幕府勢力の不満からの反乱など時代を逆行させる動きを抑えることに貢献したのだ.その根底には,日本のアイデンティティと文化を尊重しつつ,国を世界に向かって開いた新しい時代にも対応する柔軟な精神があり,脱亜入欧のような些か単純軽薄な発想と対極を為す.戦後日本は平和と安定は手にしたが,今度は入”米”が更に進み,和魂洋才の精神はすっかり廃れてしまったかに見えるのが残念である.
勝先生が今の世をどう観るであろうか.−−−いや,多分,既に予見したあったに違いあるまい.私の手元に,昭和18年再版の安部正人編「武士道」という古書がある.原著は明治35年で,山岡鉄舟の武士道講話記録を安部正人が編纂したものである.その内容は安部がかなり脚色したものであり,多分に明治の武士道的史観が混入しているという批判もあるのだが,同書には勝海舟の解説が収められていて,こちらの方はなんとなく勝先生の言いそうな文句で満ちている.曰く「いったい生類特に人類のごときものは、悪い道や自由の観念は教えなくとも、否、制御してもなお覚えたがるものよ。また、人を教育するのに権利の方向から小理屈ばかりいいならわせてどうするのだ。...(中略)...見よ、今日の教育が理屈から急ぐものだから、人心の腐敗はどうだよ。」とある.今のご時世を明治の時から見透かしているようだ.
先頃,勝海舟先生の真筆掛軸を二軸入手した.その自由自在な勢いのある墨跡を眺めながら,勝先生の自己確立した精神と時代を見据える洞察力に憧れる.
勝 海舟 先生のこと
笄
日本刀の拵えには小柄と笄が付いているものがある.鞘に溝が設けてあって,そこに納められ,鍔にはこれらを通す穴が穿たれている.小柄は,ペーパーナイフのようなもので,懐紙を切ったり,ちょっとした小刀として使ったようだ.良く時代劇で,小柄を手裏剣代わりに投げている描写があるが,小柄は柄の方が随分と重いので空中で回転してしまい,刃の方がささらないので手裏剣代わりに使うのは難しいと聞く.笄は,櫛のようなもので髪を掻き揚げて髷を結う道具だったようだ.他に髷を結ったまま頭を掻いたり,髪型を整えたりするのにも重宝したらしい.
小柄は本差の拵えに付属していることも多いが,特に小柄と笄がそろって付属するのは大体脇差の拵えではないだろうか.古い拵えでは,小柄は残っていても笄は抜け落ちていることがしばしばだ.是は矢張り,江戸時代であっても笄は実用と言うより装飾品だったためだろうか.
私の脇差も小柄は付属していたが,笄は既に落ちていた.鞘には笄櫃(笄を嵌めておく溝)だけ残っていて,どうにも欠落感があって気になっていたのだが,笄だって骨董で探すと数万円するので,まぁ良いかと放置していた.それが此の程,居合刀を新調しようと思って濃州堂さんのカタログを見ていたらさりげなく笄が載っていたのだ.現代のもので全く構わないので早速入手してみた.笄の柄の幅は12 mmと聞いていたので多分大丈夫だろうと思っていたが,笄櫃に嵌めてみると案の定しっくりと収まった.絵柄は月と鳥.細かな魚子地に明るい月が半面雲に隠れたイメージで冴え冴えと輝いていて,鳥がそこにかかっている.伝統的なイメージであり,明るい夜のイメージが良い.
やはり,小柄・笄と揃えて拵えにいれると,しっくりとくる.あるべき処にあるべきものがあるという安定感がある.これで,脇差しの拵えも完成した.
なんというか,現代部品で拵えを補うということが,日本刀を「触るべからずの美術骨董品」として扱うと言うよりも,日常の愛用品として処遇するという感覚になって,なんだか嬉しい.本差の方はもとより居合の修行で愛用しているから,すなわち実用品であり,武道修行の相棒である.また,私は本差にも脇差にも,自分の精神を映す御守刀として神性を観じている.これは霊器としての属性で,美術品というと違和感がある.
つまり私は日本刀に総じて実用的な道具としての属性を観じているのだが,他方で法律上,日本刀はあくまで「美術品」としてしか所有を許されない.露骨に武器として所持を認めろとまでは言わないが,骨董美術品としてより,「精神的な御守刀」としての所有を認めるほうがよいのに,とは思う.そこに敗戦後の抑圧の一つが尾を引いているような気がするのだ.
現代物の笄も江戸時代の拵えにしっくり入る.
笄櫃が空いているのはやはり寂しい.
小柄は越後守照包銘の入った良いのが付属していた.茄子の彫刻も良い出来だ.
居合の間合
折角習った形を運用するためには間合いの確認や,打ち込んだ感触を観ずることは大切だが,これは流石に真剣を使う訳にはいかない.そこで,例えばスポーツチャンバラのソフト刀を使うと間合に関してのみは確認できそうだと考え,私同様少林寺拳法を修している息子を相手に斬合いをやってみた.すると,色々面白いことが実感できた.
矢張り,私の場合刀の間合いは両手斬りで拳法の逆蹴とほぼ同じ距離,片手斬りでは一足長分遠いところに届くのが実感できた.また,大体刀を抜いた後では拳法の乱捕りを拡張した感覚で動けそうなことも分かった.
さて,正座の前の場合,我が抜打の一太刀目で届くのが約1.5 mくらいで,これは丁度居合の形の想定と一致していた.相手と正対して1.5 mの距離があって相手が自分とほぼ同じ背丈の場合,50-30cm余裕があるから相手はこの間合いを詰めないと我を斬れぬ.お互い坐っていて,相手が居合を知らずに刀を抜いて我を襲撃する場合,上記のように半歩の距離を詰めねばならない.相手が立ち上がって振りかぶり,半歩詰める間に我は抜打ちと同時に片足を出してこの間を詰めることができるので,同時に動作を開始したとしても一瞬早く相手を斬れることになる.すなわち,刀を前に送り,抜き付ける瞬間は相手の準備動作より半呼吸速いので,斬れる.互いに座しているときの想定, 1.5 mの間合は絶妙である.ただ,一刀目で斬り付けて,相手が仰け反ったら,二刀目は両手斬り故にさらに間合が近くならないと行けなくなる.従って二刀目で歩を進める動作が無い無双直伝英信流の場合,一刀目で相手は悶絶し,二刀目はそのまま動いていない相手を真っ向断じてとどめるという想定にならざるを得ないと思う.もしくは,訓練のための形であると考えるべきか.夢想神伝流では,二刀目の前に半歩分歩を進めるので,理合いとしてはこちらの方が自然かも知れない.
相手が先に立つ後の先の間では,半呼吸の先が無いので抜き付けが間に合わず,両者の刀がほぼ同時にかち合うようになる.そこで無理に切り結ばずに抜刀から受けに行く.相手が準備動作を終えたときにこちらの準備動作が始まるくらいの間になるとすると,相手が半歩出て,こちらはそのままの位置(同じ腹面の距離)で受ける格好になるから,同じ背格好で同じ長さの刀ならば,丁度間合いがあう.
このあたりが半歩出て斬る制空権1.5 mの限界になるだろう.
立って居る場合は双方の機動力はさらに高い.それで,立位では,お互い刀を納めたところからならば,1.5 mから少なくとも半歩遠い2m程度,相手がすでに抜いているならば,我は前に柄を送った状態でもさらに半歩遠い2.5 mの距離が無くては間に合わないだろう.チャンバラをやってみた感じでは,横一文字で無く切上げながら抜き付ける場合や受け流しに行く場合はもう若干近く,2 mから1.5 mの距離ですでに抜刀した相手にでも対応できそうだった.そう言う意味では立位での局面では,全日本居合道連盟刀法にある神道無念流の切上げが有効に感じた.
お互い刀を抜き放った後ならば,のど元に切っ先を突きつけて牽制することでお互い距離がとれる.やってみるとこれが大体,刀が届く間合いの1.2 mより10 cmくらい遠い1.3 mくらいで落ち着く感じだった.そしてこの間合いをとるというのが,抜かずでは大変難しい事を実感した.怖くなければ相手は入ってくる.これは当然である.相手の抜刀が間に合わないと踏めばいくらでも前に出られる.従って,互いに刀を抜いていない状態から始める場合は,立ち会う瞬間の間合いと間の取り方,相手への威圧がその後の全てを決すると言える.
結局のところ,居合は口伝に言うように,矢張り出会い頭,鞘のうちが勝負であることを実感した.時代劇で,すでに抜刀した相手に対峙した抜刀術の使い手が,わざわざ抜いた刀を納めて抜刀した相手に向き合う場面が偶にあるが,あれはあり得ない局面と感じた.相手が抜刀済みでそこから対峙するならば,すでに後れをとっている.この場合は,まず2.5m程度の距離をとって正対しないとならないが,正々堂々とした試合ででも無い限り,すでに刀を抜いた相手がそんな悠長に待ってくれるとは思えない.
互いに2 mより近い位置にいて双方刀を抜いていないならば,そのときは抜くよりも素手による先制攻撃の方がずっと速いであろう.即ち,私ならば2m以内の距離に居る相手が柄に手を掛けたら,相手が抜刀するより速く拳法の逆蹴を喰らわすことに賭けるだろう.2 mより遠い位置で互いに刀を抜いていないならば,抜刀術により先制して勝ちに行く.
相手が抜刀済みで2 mから1.5 mの距離であったら,抜きながら受け流すことを選択するだろう.それより近い位置で相手が抜刀済みであれば,一か八か地を転がって距離をとるくらいしか手はないだろう.
スポーツチャンバラの刀は軽いので刀そのままでは無いが,少なくとも間合いについてだけはこれで遊んでみるとよくよく実感できるから楽しい.
いずれにせよ,居合は鞘のうちが勝負とは,良く言ったものだと思う.
刀の伝説
名刀には伝説がつきものである.例えば,刃こぼれした刀の側で眠ったら蛍が刀に群がり集まる夢を見た.目が覚めて刀をみるともとどおりに直っていた.其れで,その刀は蛍丸と呼ばれることになった等.このような話は,必ず最初に誰か一人が話を作って,其れが語り伝えられるうちに伝説となったものだろう.ならば,現代において話を作っても,何代か後には古来からの伝承と区別が無くなるのではないかしら(恵方巻きみたいなもんですね).それで,気に入って手に入れた刀に自分で伝承を創作してみた.
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「秋津丸縁起」
昔,武蔵国大和守安定なる鍛師(かなち)の門下に天津(あまつ)といふ者あり.年若く未だ修行の身なれど良く剣を打ち,天の一文字銘切りて知る者ぞ知るなり.天津に秘めたる技あり,澄みわたり冴えたる神水に剣を淬ぎ(にらぎ),刃先に匂満ちて白く霞みたり.その神水の沸き出づる処,堅く秘して語らず.
天津の打ちたる刀に,姿すぐにして重ね厚く,重く豪壮なる一振りあり.をぢなき侍に乞われこれを打つと言ふ.重けれども手にとらば刀身先んじて空を払い軽やかに走るなり.対峙したる者,その剣鋒先の走りに秋津群れ飛ぶを見たり,その太刀筋の神速になす術なしといふ.もって秋津丸といふ.斯の侍,秋津丸を得て思ひたち,その後敗れることなしとかや.秋津丸主を良く守りしも,主に末のなき故に後の所在知れず.
としごろ経て,武蔵国の某,はじめて得たる刀を一振りせしに眼前に秋津の群れとぶを見たり.怪しみて銘を改めば,既に削れてあとかたなけれど,この刀,名に聞こゆ秋津丸に相違なしと覚へ,おおいに慈しみて伝へたり.